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[レポート] グリーン・マウンテン・カレッジ 令和6年度ダイジェスト
(撮影:前川俊介)
グリーン・マウンテン・カレッジは、美術家小山田徹さんが発案し、
校長として2018年より開校してきた「学び合いの場」。
様々なゲストを迎え、参加者と共に小さな火を囲む対話を繰り広げてきました。
令和6年度は、小山田校長の古くからの仲間である
アーティスト、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんがカレッジ校長代理となり、
ならまちワンダリングの「座学」として、11月と12月の土曜日に開校しました。
障害者とアート、地域社会とアート、クィアとアート……
そんな様々な事柄を「今ここ」のこととして考えてみた、全3回のダイジェスト・レポートです。
第1回 ゲスト:中島香織/一般財団法人たんぽぽの家 事務局長
2024年11月16日(土)第1回、天気は小雨。前半トークはモニターを使用するので、ならまちセンターの1階エントランスで行うことが決定。後半、雨が上がれば焚き火にあたれるように、芝生広場に小さな火は起こします。
エントランスに並べた椅子に少しずつ参加者が集まって来たところになんと、小山田校長が!
サプライズゲストとして一緒にトークに加わっていただくこととなりました。
時間になり、ブブさんより「はじめまして。校長代理のブブ・ド・ラ・マドレーヌです」との挨拶から、第1回はスタートしました。
そして本日のゲスト紹介へ。
中島香織さんは、奈良市にある一般財団法人たんぽぽの家の事務局長をされている方。たんぽぽの家とは、障害のある人や子ども、高齢者が安心して地域で生きていくことを支えるために、文化活動の力を活かして活動する市民団体です。発足は1970年代。所在地がブブさんの家の近くにあったことなどから、数年前、バザーに足を運んだブブさんは、そのカーニバルみたいな盛り上がりに驚きます。
なんでこんなことが可能なのか?と興味を覚えたブブさんは、ご自身の介護の経験から、利用者を支えるスタッフの働き方に関心を持ち、改めて中島さんのおられるたんぽぽの家アートセンターHANAへ見学に行きました。
建物内は、作業場や来客のスペースなど明確な区切りはなく、そんな様子を、かつて見学に来られた方に「色んな出来事とメンバー(利用者)が自然と出会うようになっているんですね」と言われたと中島さんは話します。
絵や織物、陶芸などの作品を制作するアトリエはどこも整頓され、制作中のメンバーの傍らには、色混ぜなど裏方として支えるスタッフが寄り添います。
そんなケアする側の人たちが働きやすい職場とは?とのブブさんの疑問の答えを探して、話は中島さんとたんぽぽの家の出会いへと続きます。
中島さんは学生時代、音楽療法をされていました。医学的に植物状態とされる子どもの周りで即興の演奏をやっていた時、感じたことがありました。
「ある瞬間は手応えがあったり、ある瞬間はなかったりと、自分の実感としてはあるけれど、これはどういうことなのかなと思っていました」
そして同じ頃、ジャワ舞踊家の佐久間新さんによる身体表現のワークショップに参加する機会があり、実感したことがありました。
「普段の生活でうまく取り繕っていることを誤魔化せないのが楽しいなと。それは障害のある人と音楽をやっている感覚に近いなと感じて」
そしてそれは、現在たんぽぽの家でメンバーと接する時の感覚にも近いと言います。
「音楽もダンスもたんぽぽも、たぶん自分はそれに魅かれてやっているなと思います」
と中島さん。
佐久間新さんはたんぽぽの家でも、一般の方やスタッフに向けてのワークショップを開催されていました。中島さんはそこにも参加し、それがたんぽぽの家で働き始めるきっかけとなりました。
回を重ねて開催されたスタッフ向けのダンスワークショップは、仕事のスキルとは直接関係のないもの。でも、中島さんはあるスタッフの言葉を思い出します。
「参加したスタッフの1人が『ダンスの時間の後には優しくなれるんです』って言って、わかるわかると。普段は決められた時間もあるし、ダメっと言わなければいけないこともあるけど、ダンスは時間の流れが違っていて、自然になって、普段なら意思疎通の難しいメンバーにも優しくなれたりします。でも長続きはしなくて、また佐久間さんが来てくれると優しくなれたり、戻ったり(笑)。外部の方から違う見方や良いと思ったポイントを共有してもらえると、変われるなと思いました」
ブブさんは、介護では疲弊した家族のケアも必要との実感から、専門家にゆだねることの大切さを語られ、そして小山田校長からは、自身が半年入院されていた経験から、
「身をゆだねることが今まで下手やったなと。何でも自分で頑張ってやってしまう。でも身をゆだねるということが、関係を作ることの、実はめちゃめちゃ大きな出来事だし、きっかけなんかなと」
ゆだね合いみたいなものが、たんぽぽの家のスタッフの間にもメンバーとの関係の中にも上手に埋め込まれていて、そこに良い空気が流れているのだろうと感想を述べられました。最近よくSNSなどで、何か起こったらどうするのか?といった意見が出ることがありますが、それに対して「何かは絶対起こる。だから腹を括っている、というのは、ゆだね合いの中にもあるような気がする」と続けました。
最後にブブさんが「もう一回見学に行きたいわ」と言うと、
「見学の方を求めています、見学代をいただいていますが、それも仕事とメンバーの皆さんは自覚していますから」と中島さん。
雨は上がりました。
「焚き火があります。外へ行きましょう」
ブブさんに促され、参加者は芝生広場へ。小さな火を囲み、時間一杯まで対話は続きました。
第2回 ゲスト:雨森 信/インディペンデント・キュレーター、HUB-IBARAKI ART PROJECTアドバイザー
(撮影:前川俊介)
2024年11月30日(土)第2回、晴れました! 昼間は冷たい風も吹きましたが、日の当たる場所は気持ち良く、ならまちセンターは内も外も、残り2日となったワンダリングウィークの参加者で大盛況!
そして、日もとっぷり暮れた18時。ティピーテントが立ち、芝生広場の5か所に小さな火が起こりました。
本日のゲストはインディペンデント・キュレーターの雨森信(あめのもり のぶ)さん。
ブブさんと、この日も駆けつけてくれた小山田校長に挟まれる形で座る雨森さん、「大先輩を前にお話しすることになりますが…」と少し照れ笑いを浮かべながら、話はまずご自身がこのお仕事に就くことになられた経緯から。
京都市立芸術大学で染色を学んでいた雨森さんは、立体作品などを作る中で、現代美術が社会と接点を持てていないことに違和感を感じます。卒業時には美術作家にはなれないと思い、設計事務所に就職。でもそこでも、向いている方向は社会というよりはクライアント。もやもやした気持ちのまま仕事を続ける中で、ある依頼が事務所に舞い込みます。
「空きスペースを若い人に文化的な活動で使って欲しいと言われて。芸大の大学院にいた友達と相談しながらスペースを立ち上げました」
1993~1994年頃、まだアートセンターやシェアアトリエなどは一般的ではなく、アートプロジェクトやキュレーターという言葉も使われていなかった頃のこと。
「京都は貸し画廊がメインでした。その時、私が面白いと思う作家や作品を紹介していこうと思ったのがキュレーターになったきっかけです。同時に学生時代にもやもやしていた社会との繋がりも作っていきたいと。私の原点です」
(撮影:前川俊介)
キュレーターとして専門的な勉強をしてきた訳ではないという雨森さんですが、その後も活動は広がっていきました。
そして2003年、雨森さんは大阪市の文化事業、ブレーカープロジェクト(Breaker Project)のディレクターとして、町の中でのアートプロジェクトを始めます。
ここでブブさんからの質問です。
「キュレーターって何をする仕事?…って困る質問?(笑) 」
雨森さん、やや考えて、
「展覧会であれプロジェクトであれ、どういうコンセプトで、どういうビジョンでそれを実現させるのかを考えて、そしてそれを実現させる仕事です。アートプロジェクトの場合は、地域との関係が大切なので、そこを繋いでいくことも私の仕事の範囲に入っています」
モニターにはこれまでの活動が映し出されます。雨森さんは、活動当初から一番影響を受けたアーティストに、藤浩志さんの名前を上げます。藤さんは言わずと知れた、ならまちワンダリングのプログラムディレクターです。
(撮影:前川俊介)
2008年頃、雨森さんは最初の拠点だった場所を出なくてはならなくなりました。その時、藤さんからアドバイスをもらい、新しい拠点を、新世界市場にあった元煮豆屋さんに創ります。大きな釜など煮豆道具も残っていたその場所を、一週間くらいかけて皆で掃除して、『プロジェクト拠点マメゲキ』を始めました。
「よく藤さんが言われるんです。アートプロジェクトは掃除と挨拶(笑)。何しはんねやろ?と思っている近所の人たちにちゃんと挨拶して、真面目に掃除して、信頼を獲得していく。場所が市場なのでコロッケ買ったりお饅頭買ったり、関わりを持ちながら拠点を創りつつアクションを起こしていきました」
藤さんとのプロジェクトはその後も続き、他にも、きむらとしろうじんじんさんの「野点」、伊達信明さんの「建築物ウクレレ化保存計画」、西尾美也さんの「家族の制服新世界編」などなど…。伊達さんや西尾さんのプロジェクトでは多くの住民の方にリサーチインタビューを行い、じんじんさんの野点では町歩きからスタートして、周辺住民から承諾を得られなければ開催はしない――地域の方々との関係を大切にしながら、数々のプロジェクトは行われてきました。
(撮影:前川俊介)
その後、拠点は2015年廃校となった元今宮小学校に移ります。同じ頃、ブブさんの「積み木」のプロジェクトも始まります。ブブさんは、子どもたちと積み木を作ることは「面白くてかなり深い取り組み」であり、このプロジェクトに感謝していると話します。
昼間、ならまちワンダリングでも開催中だったブブさんの「つみき部」には、子どもや大人がひっきりなしにやって来ては遊びに興じていました。ブブさんは、
「ワンダリングで実感したのは、こういう場所が各町内に週一回でもあったらいいなと。そう言えば、雨ちゃん(雨森さん)前から地域活動拠点って言ってたなと」
正確には「地域創造活動拠点」。それは地域に開かれた活動拠点です。
ブレーカープロジェクトは、惜しまれつつ2024年3月に終了となりましたが、関連の活動は引き続き行われています。
「創造活動拠点は、空き店舗や建物の一角でも作っていけます。これらも、色んなところでそれを広めていきたいと思っている人と、出会っていきたいです」と語る雨森さん。
沢山のアートプロジェクトの事例をシェアしていただき、この夜のトークは終了となりました。
終了後、「古都祝奈良の学校」の参加アーティストである平岡真央さんによる『みんなの餃子』というイベントがあったり、ならまちセンターの壁面に、ならまちワンダリングの「部活」で参加者が制作したイラストが映写されていたりと、いつものグリーン・マウンテン・カレッジとは少し違った賑やかさの中、歓談は続きました。
(撮影:前川俊介)
第3回 ゲスト:菅野優香/同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授
2024年12月14日(土)第3回、底冷えする奈良の夜。小さな焚き火に可能な限り近付きたくなる最終日、開校です。
会場の芝生広場の斜め前にあるホテル尾花、そこはかつて老舗映画館「尾花劇場」でした。校長代理ブブさんにとっては青春の映画館。場所に縁を感じて、映画館の話がしたいと呼んだゲストは、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授の菅野優香(かんの ゆか)さん。ブブさんとは古くからのお知り合いです。
「LGBTやセクシャルマイノリティーを含めたクィアという分野で、映画・映像の研究をしています。映画と同じくらい映画館が好きです」と語る菅野さん。ご出身は岩手県で、10歳の頃住んでいた町にあった唯一の映画館で、沢山映画を見たのが映画研究をやる原点だと話します。
ここで皆さんにクイズです。
全国の県庁所在地で、映画館のない市が2つあります(*2023年4月調べ)。それはどこでしょうか?
1つは奈良市!そしてもう1つは…山口市だそう。
モニターには奈良にかつてあった映画館が映し出されます。尾花劇場、有楽会館、有楽座――。
次に、奈良市と同じく映画館のない山口市の山口情報芸術センター[YCAM]で昨年度開催された『Afternote 山口市 映画館の歴史』について。
かつて10館以上の映画館が存在していた時代の地域の記憶を、資料やインタビューを通じて振り返る展覧会の概要を紹介しながら菅野さんは言います。
「映画館って、町の大事な文化的仕掛けを色々するところ。町の記憶です」
映画や映画館の記憶は、個人としても人生の色んな場面での役割があるとブブさんが応じて、参加者に話を向けると…次々に映画や映画館の思い出が語られました。
「クィア」という分野で、映画・映像の研究をしている菅野さん。クィアとは、元は同性愛者に対する蔑称でしたが、1980年代、当事者たちが使用したことから、現在では性的マイノリティや、既存の性のカテゴリーに当てはまらない人々の総称としてポジティブに使われている言葉です。
菅野さんにとって映画館とは、「生きにくい現実社会から逃避できる場所」でした。性的マイノリティーの当事者として、物心ついたときから何となく生きにくさを感じていて、でも真っ暗な空間の中で映画を見ている時は現実を忘れられたと。
そんな菅野さんがクィア映画の研究に進むことになったきっかけは、大学生時代に見たある有名な映画でした。世界中でヒットしたこの映画のクライマックスで描かれる異性愛のシーンを見て、
「この世界から、自分は圧倒的に排除されてるなと勝手に思って(笑)」
そこから、LGBTやセクシャリティに関する映画をもっと見ようと思った、と続けます。
菅野さんはクィアの研究領域について、「誤解されがちだが、クィアは異性愛がだめだというものではなく、人は異性愛者であるべきだという規範を押し付けることに抵抗しているのがクィア研究。規範を問い直すこと、当たり前と思っていること、常識と思っていることを問い直すこと」だと言います。
そして菅野さんは、映画の持つ影響力の大きさについて言及します。
「映画は歴史的に非常に大きなスケールで、圧倒的な魅力でもって人に様々なことを教え込んできた装置だと思います」
食べ物、暮らし方、立ち居振る舞い、家族の在り方、そしてジェンダーとかセクシャリティーに関しても、強力な教育装置になると。
その上で、映画研究の面白さについても語ります。
作品、監督、役者、脚本…色んな切り口から研究出来る映画には、例えば観客諭もあり、映画祭という切り口もあると。モニターには賑やかな映画祭の様子が映し出されます。
「マイノリティーのグループにとって、仲間がいる空間となる映画祭の役割は大事なんです。映画祭は開かれた感じがいいし、大切なコミュニティー作りの場です」
娯楽である映画は、映画祭開催の敷居も低く、そこが良いところですね、と菅野さん。全国に小さくてもいいからそんな映画祭がいっぱい増えるといいね、とブブさんが応じて、互いにまた映画の話がしたいと言い合いながら、今年度最終回のトークは終了となりました。
障害者のアートとそれを支える人、労働者のまちで共に創るアート、そしてマイノリティーと映画……
校長代理ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんによる令和6年度のグリーン・マウンテン・カレッジは、
実はずっと前からココにいたのに気づかなかった、気づけなかった人やコトに思いを馳せる全3回となりました。